田無神社の文化財
金箔で仕上げられている獅子頭(雄獅子・雌獅子)は西東京市の文化財に指定されています。この獅子頭は嘉永3年に製作され、その後、元治元年に修復されました。明治政府の神仏分離令により、一時期、この獅子頭は西光寺(現總持寺)に移されますが、戦後、田無神社に戻されました。田無神社境内に神輿庫が竣工するまでは、拝殿の左側納戸に納められていました。
この獅子頭を用い、田無村の上宿と下宿が神楽を競い合い、作物の豊凶を占ったとされています。その後、輦台神輿と共に雨乞いの神輿として信仰されています。
獅子頭を乗せた輦台神輿は二基ありますが、両方担ぐと雄と雌で喧嘩をするということから、どちらか片方が担がれてきました。
いつ頃までこの神輿が担がれていたのかは、大正時代まで輦台神輿が担いでいたと記載のある文献や、戦後に神輿渡御を見たという方もいて、正確なことはわかっていません。
『田無市史第四巻民俗編』(448〜449頁)に、獅子頭について次のような記述があるので紹介します。
「六根しょうじょう、ざーんげ、ざんげと唱え水を被り体を清め、竜神様を呼ぶため神輿を担いで田無神社から谷戸まで練り歩いた。雨乞いの神輿は荒っぽくて近寄れるものではなかった。神輿には田無神社にある獅子頭をかついだが、それは大変に重いものであった。雨が降らずに乾き切った路を歩く神輿担ぎは、しまいにはよろよろになって、沿道の人は勢いつけに水をかけた。田無神社の獅子頭は雨乞いの神様といわれ、そのためお祭りには出さなかった。獅子頭を担いで練り歩くと、どういうわけか雨が降ったという。もともとは蚕の総仕上がりの祭りの悪魔払い、そしてお湿りが順調であるように願いを込めて担いで歩いたものであったという。」
田無市発行『たなしのむかし話』(51〜52頁)に獅子頭について次のような記述があるので紹介します。
「浜中 そのずっと前には年寄りの話だけど、神輿の中に入れて練り歩くんじゃあなく、獅子頭に布が付いてて、その中に五人でも十人でも入って練り歩いたらしい。そうすると布の中でお互いにいたずらし合ってしょうがないから神輿にしたんだなんて聞いたことがある。
大谷 まだ布はあるよ。獅子頭も輿もお宮にあるし。
保谷 あの獅子頭は雨の神様で、あれを出すとどう言う訳か雨が降ったらしい。
矢ヶ崎(要) そう言うよな。だからあれは昔からお祭りには出さなかったんだ。」
向台小学校発行『向台わたしたちのいきる町』(51頁)に獅子頭について次のような記述があるので紹介します。
「大祭がよく雨に降られたため、豊作祈願のための獅子がいつの間にか雨乞いのシンボルになり、大きな蓮台神輿と共に雨乞いに活躍するようになったのです」