田無神社の文化財
本殿について
建築年 安政5(1858)年
建築年 安政5(1858)年
本殿は社殿の奥深くに鎮まり、鉄筋コンクリート造の覆殿に囲われています。境内から拝殿越しに遠く仰ぎ見ることはできますが、拝殿のさらに奥にある本殿は、暗闇の中におぼろげに、幽かにしか見ることが出来ません。現在の覆殿は昭和47年に完成しました。覆殿の竣工日には、お神輿が田無の町を練り歩き、さながらお祭りのようだったそうです。
鉄筋コンクリート造の覆殿の完成前までは、木造の覆殿によって守られていました。本殿が江戸期に造られた姿そのままを今に残しているのは、古くから覆われ、直接の雨や風、日の光から守られてきたことの結果に他なりません。反面、このように秘蔵されてきたことにより、本殿の彫刻の価値が世間にはほとんど知られてこなかったことも事実です。平成7年に自費出版された「彫工嶋村俊表の美 田無神社本殿写真集」により注目されはじめましたが、東京都の本格的な調査が入ったのは平成11年からでした。この調査の結果により、本殿ばかりか、拝殿についても東京都の文化財に指定される運びとなりました。
本殿の規模は身舎桁行柱間4尺3寸、梁行柱間3尺8寸7分、身舎から向拝柱間3尺8寸7分、棟高は5.04m、建物面積8.03m2と実測されます。江戸の堂宮建築の高度な水準を示す貴重な建物です。
本殿は入母屋造りの銅板葺きで、唐破風、千鳥破風をあしらった素木の総欅造の江戸後期の神社様式の社殿です。唐破風とは頭部に丸みをつけて造形した、屋根にある破風のことで、千鳥破風とは屋根の流れ面に起こした三角形の破風のことを指します。入母屋造りとは側面から見て上部が切妻屋根、下部が流れ屋根になっている建物のことを指します。身舎下は石造亀腹、向拝下は布石基礎で、その上に土台が乗ります。亀腹とは、社寺建築の基礎周辺部等で、漆喰で盛り上げて造られた饅頭形のものを指します。身舎土台上には八角柱が立ち、台輪を配して、腰組三手先にて縁葛と大床を支えています。正面に幣軸構え、桟唐戸の両開き扉が付いています。桟唐戸とは、四周の框と縦横の数本の桟を組み、桟と框の間に入子板を嵌め込んだ扉のことです。向拝柱は角柱で、水引虹梁、繋ぎ虹梁が架かっています。身舎の胴羽目、木鼻、虹梁など、柱や長押といった構造材に至るまで、各所に彫刻が施されています。彫刻数は、建造時に記された「尉殿権現普請請負一札」及び「尉殿権現彫物積帳」に147点であると記されています。
身舎妻飾りは四方とも、大斗・虹梁・蟇股で、化粧棟木隠しとして懸魚が付きます。蟇股とは、梁・桁に設置し、荷重を分散して支えるために、下側が広くなっている部材のことを指します。そのシルエットが蛙の股の様に見えることから蟇股と呼ばれるようになりました。虹梁は向拝水引虹梁が流水紋で飛雲籠彫根肘木付き、繋ぎ虹梁は飛龍籠彫で右が上がり龍、左が下がり龍です。籠彫とは、内部にも透かし彫りをして立体的に仕上げることを言います。根肘木とは、柱にとりつけた虹梁を支えるため柱に差しこんだ材のことを指します。身舎二重軒支輪は上が飛龍、下は植花流水、琵琶板には鳥。また腰組琵琶板には亀、腰組柱間には麒麟(一角獣)が配されています。軒付には一重軒付と二重軒付があり、二重軒付は一重軒付に比べて軒の出を深く優雅に見せることができます。軒の斗栱部分や折り上げ天井で、斜めに立ち上がって並列している弧状またはS字状の材を支輪と言います。虹梁とは虹のように上方に反りを持たせてある梁のことを指します。
尉殿権現普請請負一札には、本殿は安政5年に造られ、棟梁は多摩石畑村の鈴木内匠、脇棟梁同玉吉、彫工として江戸浅草平右衛門町の嶋村源蔵が手がけたと記されています。
本殿背面の大羽目彫物の刻名や、田無神社宮司家の賀陽家祖霊社に祀られる賀陽玄雪像から、嶋村源蔵とは、嶋村俊元を祖とする嶋村家の八代に当たる「嶋村俊表」のことであるとわかります。源蔵とは、嶋村家当主が代々世襲した幼名です。嶋村家は当時、石川家(下谷)、後藤家(京橋)と共に「江戸彫物大工御三家」に数えられ、幕府の官工といわれていた名家でありました。『彫工左氏後藤氏世系図』等によれば、嶋村家は万治寛文頃の人である「俊元」を元祖とし、二代圓鉄、三代俊実と続きます。その他、本家以外の嶋村姓を名乗る彫刻大工が活躍しており、嶋村流という一派を成していたと思われます。現在の、東京、埼玉、茨城、千葉といった関東東部が嶋村家一派の活動範囲であったと考えられます。
十代俊明(明治29年没)は日本における近代の最初期を代表する彫刻家であり、建築の装飾彫刻である彫物から離れ、芸術家としての彫刻家の道を歩みました。
嶋村俊表は川越氷川神社本殿(埼玉県指定文化財)、成田山新勝寺釈迦堂(国重要文化財)、賀陽玄雪像(賀陽家所蔵)等を手がけた江戸後期の天才彫工です。さらに、千葉県の勝浦市には、「勝浦市本町屋台」、「富士山に龍」、「えびす・大黒」等、嶋村俊表が手がけた多くの作品が残っています。嶋村俊表の作品を勝浦市が所蔵していることが一つの要因となり、西東京市と勝浦市の間で、平成15年に友好都市の提携に伴う盟約調印式が行われました。
田無神社本殿は俊表が晩年に手がけた作品であり、円熟期の卓越した技量がみごとに発揮された代表作です。本殿には龍や獏、象、獅子、二十四孝の彫刻、繊細で多様な地紋彫りが建物の隅々にまでほどこされています。地紋彫りは種類も多様であり、身舎円柱、地長押、上下内法長押、台輪、腰組八角柱、縁葛大床廻り縁木口、隅木先端の木鼻、擬宝珠柱と高欄の各部材、脇障子袖柱、笠木、向拝柱、水引虹梁、菖蒲桁、軒唐破風の化粧棟木、浜縁土台、縁束、隅木、葉紋や卍崩し紋が施されており、建物をさらに一層賑やかにしています。
川越氷川神社本殿は総工費約二千両、成田山新勝寺釈迦堂は約一万八千両であったとされます。田無神社本殿の彫刻を俊表は百三十五両という破格の安値で請け負いました。本殿の建築費は、地域の人々から奉納金を募らず、田無村の名主 下田半兵衛の個人財力によるものでした。推測になりますが、俊表が、破格の安値で請け負ったのは下田半兵衛の心意気を汲んだからではないでしょうか。
本殿の壁面には二十四孝図が彫られています。二十四孝は元の郭居敬がまとめた、後世の範として孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物です。日本にも伝来し、御伽草子や寺子屋の教材にも採用されています。田無神社本殿には二十四の道徳のうち、大舜図(本殿東面)、楊香図(本殿西面)、姜詩図(本殿北側)が選ばれています。
「大舜」は孝に厚く、徳の高い舜を見込んで、時の皇帝の堯が帝位を舜に禅譲したという話です。本殿には、象や鳥が舜を助け、畑を耕す場面が彫られています。
※田無市立中央図書館発行の資料集「田無神社(2)」(25頁)に大舜図の写真とキャプションが掲載されています。そこには本殿の「大舜図」には「人の悪夢を食べる動物」が彫られていると記載されていますが、実際には夢を食べるとされる獏ではなく象が彫られています。
「楊香」は襲ってくる虎から父親を助ける女の子の勇気と孝行を描いたものです。楊香は父と山に入った際に虎に遭遇しました。父の命を守るために追い払おうと天に自らを犠牲にし、「父を守り給え」と祈りました。すると虎が逃げていき、無事に父子で家に帰ることが出来たというお話です。
「姜詩」は妻の龐とともに母に仕え、母の好む江水をくみ、なますを作って饗したところ、庭に江水に似た味の湧水が湧いて、毎朝二尾の鯉をもたらしたという話です。貴人が柄杓で水を汲む姜詩に出会う場面が彫られており、湧き水をテーマにしています。
『彫工嶋村俊表の美 田無神社本殿写真集』では本殿正面(南面)の図は「養老孝子図」であるとしていますが、『田無神社本殿の美』では、本殿北側と同じテーマの「姜詩図」であるとしています。
「養老孝子」は、岐阜県養老郡に伝わる孝子の物語です。貧しい孝子が酒を好む老父を養うために薪を採りに山に入り、酒の滝(または泉)を発見して、「瓢箪」を用いて老父に与えるという日本の伝説です。
「養老孝子図」も「姜詩図」も、泉から水を汲む場面が彫られているので見分けがつきにくいですが、私は本殿正面の彫刻は「姜詩図」より「養老孝子図」の方が可能性が高いと感じています。
なぜなら、俊表が、二つの似た構図の作品を、「瓢箪」と「鯉」の有無で、異なる作品として描き分けている可能性があるからです。本殿正面(南面)の図の水を汲む人の手には「瓢箪」が彫られていますが、北側の図(姜詩)では「瓢箪」がありません。また、本殿正面(南面)の図の泉には「鯉」がいませんが、北側の図(姜詩)では泉に「鯉」が泳いでいます。今まで氏子・崇敬者の皆様に、『田無神社本殿の美』に従い、田無神社の見解として本殿正面(南面)の作品は姜詩図であるとお伝えしてきましたが、本殿正面の作品は「養老孝子図」・「姜詩図」両方の可能性があると改めさせていただきます。
二十四孝の中で「水」をテーマに扱っているのは姜詩だけです。また、養老孝子の伝説も「水」に関連する伝説です。本殿正面(南面)、本殿裏側(北面)と主要な二箇所に彫られているということから、「水」が彫刻のメインテーマではないかと推察されます。嶋村俊表は、湧水の神として田無神社に祀られている級津彦命・級戸辺命を意識して本殿を手掛けたのでしょう。
地紋彫りは柱や梁、桁などの表面に幾何学模様を浅く刻む彫り方です。
向拝柱の地紋彫り一つとっても、まるで木を細やかに編んだ織物のように美しく、それ自体が完成された作品と言ってよい暗いですが、それでいて、全体の造形と調和し、ハーモニーを奏でています。