嶋村俊表は、左甚五郎を祖とし、江戸幕府公認の神社や仏閣の彫刻を担当した名門・嶋村家の八代に当たります。初代・嶋村俊元は浅草寺屋根上の力士、五重塔を手掛け、その息子である二代目・嶋村円鉄は成田山新勝寺光明堂(1701年、国・重要文化財)、同・三重塔(1712年、国・重要文化財)の彫刻を手がけています。このように、嶋村家は代々、彫物大工を継承する家柄であり、名工を輩出してきました。
代々の名工の中でも嶋村俊表は、江戸期の日本文化を一身に体現した天才と言ってよいでしょう。俊表は、川越氷川神社本殿(1842年から関与、埼玉県指定文化財)、成田山新勝寺釈迦堂(1857年、国・重要文化財)なども手がけ、残した作品のすべてが文化財に選定されていることからもその才能の素晴らしさが証明されています。中でも田無神社本殿(東京都指定文化財)は東京芸術大学学長の宮田亮平氏の言うように、天才・俊表の生涯における最高傑作ともいえる圧倒的な作品です。ここに江戸期日本文化の結晶を見ることができると言っても決して過言ではありません。
本殿は社殿の奥深くに鎮まり、鉄筋コンクリート造の覆殿に囲われています。現在の覆殿は昭和47年(1972)に完成しました。同年11月3日に覆殿新築遷宮祭が斎行され、神輿が田無の町を渡御し盛大に祝われました。それ以前は、本殿は木造の覆殿によって守られていました。本殿が江戸期に造られた姿そのままを今に残しているのは、古くから覆われ、直接の雨風、日の光から守られてきたことの結果に他なりません。反面、このように秘蔵されてきたことにより、本殿の彫刻の価値が世間にはほとんど知られてこなかったことも事実です。平成7年(1995)に自費出版された「彫工嶋村俊表の美 田無神社本殿写真集」により注目されはじめましたが、東京都の本格的な調査が入ったのは平成11年(1999)になってからでした。この調査の結果により、本殿ばかりか、拝殿についても東京都の文化財に指定される運びとなりました。
尉殿権現普請請負一札には、本殿は安政5年(1858)に竣工し、棟梁は多摩石畑村の鈴木内匠、脇棟梁同玉吉、彫工として江戸浅草平右衛門町の嶋村源蔵が手がけたと記されています。本殿の壁面には二十四孝図が彫られています。二十四孝は元の郭居敬(権吉祥、趙子固とする説あり)がまとめた、親孝行を説いた逸話です。本殿には二十四の道徳のうち、大舜図(本殿東面)、楊香図(本殿西面)、姜詩図(本殿北側)が選ばれています。