田無神社

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田無神社と宿場町

江戸時代当初、幕府直轄領であった田無の人々は、大久保長安の指示に従い、水の豊かな谷戸周辺から水に恵まれていない青梅街道に移り住み、江戸城や江戸の町作りのための伝馬継ぎとして青梅街道に沿って宿場町を形成しました。青梅街道は青梅の石灰の運搬のために草原を切り開いて作られました。青梅街道は青梅から箱根ケ崎、さらに田無、中野を経て江戸まで五十キロ続いています。移りすんだ直後は生活用水にさえ困り、人々は谷戸まで水をくみに行く生活を余儀なくされました。このような状況は元禄九年(1696年)に田無用水が玉川上水から分水されるまで続きました。田無神社の本殿の正面には、湧き水から水を汲む図が彫られています。谷戸から移り住んだ祖先の苦労へのねぎらいと、本来は水の守り神である尉殿大権現への厚い信仰をみる事が出来ます。

宮山について

谷戸の宮山(尉殿大権現)には、十三世紀末から水の神様が住民の守り神として鎮座されていたと言われています。谷戸地区というのは、旧田無市と旧保谷市の境界が入り組んでいる地域であり、宮山と呼ばれる場所は田無第二中学校のプールの辺りではないかと言われております。尉殿大権現は元和八年(1622年)に上保谷(現尉殿神社)に分祀されました。その後、1775年付け古文書によると、尉殿権現は正保三年(1646年)に宮山から現田無神社に分祀され、1880年付け古文書によると寛文十年(1670年)宮山に残っていた尉殿大権現本社そのものを現田無神社に移したとされています。田無神社が男神、尉殿神社が女神であるという民間伝承は古くから残っていますが定かではありません。また宮山で尉殿権現と並んでご鎮座されていた西光寺は慶安年間(1648〜1651年)に現在の田無神社となりにある総持寺へ移ってきたといわれております。遷宮当時の社殿(祠)は現在の本殿ではなく、本殿右手にある朱色のお社(現野分初稲荷神社)ではないかとされております。現在、尉殿神社は田無神社の兼務社です。

震災と復興

田無神社は平成二十三年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震により甚大な被害を受けました。二の鳥居(参道中央の鳥居)及び境内西側の鳥居の倒壊をはじめ、本殿とその土台となる基壇とにズレが生じ、さらに拝殿と覆殿の屋根の一部が損壊、また拝殿と幣殿の彫刻の破損など、東京都の神社の中で最も被害を受けたといっても過言ではございません。東京都、公益財団法人文化財保護芸術研究助成財団、西東京市のご指導、ご援助をいただきながら、大掛かりな復旧工事ならびに将来の震災に備えた防災工事を進めてまいりました。その結果、平成二十五年六月三十日をもって全面的な復興をはたすことができましたが、この復興のために要した費用は莫大なものとなりました。その後、雨が降りしきり、雷が鳴り響く平成二十五年七月二十七日の夜に、正遷座祭を無事に終え、御霊が本殿へと戻りました。また工事完了に伴い、国旗掲揚台が奉納されました。

防犯対策について

田無神社は夜間も拝観いただける開かれた神社です。そのため我々職員は防犯対策に特に力を注いでいます。録画機能搭載の超高性能防犯カメラ、人感サーチライト、防犯ブザー、自動警報システムの大幅増大にとどまらず、常時二人体制で夜間の見回りを行っております。また、今後、警備員を組織、配置していく予定です。夜間においても御参拝社が安全にお参りできる環境を作っていきます。夜間に不審者や不審物を見つけた場合、どうぞ社務所までご連絡下さい。

田無神社・本殿

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